墓じまい?

「墓じまいしようと思ってるの」                              「え~っ、整理してしまうの?」                              「○○君も、もう、そのためにいちいち帰って墓の手入れできないからって、言ってた」      彼女は長女。○○君は長男。二人とも郷里を離れて市街や都会で暮らしている。それぞれの大きな家屋は空き家になっているらしい。

代々続いてきた家の墓。言ってみれば墓は「家の暖簾」のようなものだ。その墓所や墓石を撤去、処分してしまう墓じまい。                               最近希望者が急増しているらしく、2024年の記事によれば20歳以上の賛成者が7割とのこと。    さしあたって、維持管理の困難さや、高齢の親が子に負担をかけたくないという気持ちが「墓」を遠ざける原因として挙げられているが、根底では、家や墓に対する意識が変わってきているのだろうと思われる。                                           死んだ人が墓石の下で眠っているはずもなく、そもそも、霊が墓場で夜な夜なうろついてるなどと想像するのはあまりに失敬な話。

死んで生き還った経験がないので私見としては言えないけれど、その経験者の多くは皆同じ事を言っている。そして、その領域に通じた人も。「人は死なない」と。肉体の活動が止まる瞬間に魂が身体から抜け出て、のびのびと悦楽の次元で歓び楽しむそうだ。窮屈な、しかも多くは苦痛を伴う身体に押し込められていた魂がようやく解放されるのが物質世界でいうところの「死」であるらしい。      肉体は物質世界で生きるための単なる道具に過ぎないとのこと。車のようなもの。耐用年数過ぎれば捨てる。また、新車を手に入れて戻って来る。どうも、それだけのことらしい。言うところの輪廻転生。

その領域に関わった人たちが皆同じ事を言ってるので、そうなんだろうなぁと、ほぼ信じている。

人間にも霊感に優れた人はいるけれど、全般的に動物はよりその能力が発達しているように思われる。身近なところでは猫。実は飼い猫が死んだときに霊の存在を実感した。              住まいの近くで毎日ノラちゃんにごはん遣りをしていた。その場に飼い猫を連れて行ったことがあった。すると、ノラちゃんがうちの子に一目惚れしてしまってストーカー猫になった。うちの子はギャーッと逃げ回り。で、数か月後にうちの子が亡くなり、その翌日くらいのごはん遣りの時、いつも手が届かないほどの距離をおいて座っているノラちゃんが、目の前に来てこちらの肩の辺りを見つめている。これは不思議な光景だった。亡くなった子の霊がついて来ているのだなと、思った。翌日も近くに来て見ていたが、ノラちゃんは霊が見えていなかったのか、実体がないことに気づいたのか、その次の日からはいつもの定位置でごはん待ち。ほかの場面でそれらしいことを度々感じることはあったが、この件で霊の存在を確信し、何よりも苦しんで亡くなった子が楽になって、傍にいることが嬉しかった。

なので、「死」は悲しむことでもなく、むしろ「ご苦労様でした」と送ってあげるほうが当人も安心するかもしれない。なんてったって、俗世の一切から離れて魂の本来の家に帰ったのだから。

そういうわけなので、よほど由緒ある家じゃない限り「墓」はたぶん、無用。ただ、残された者としては供養したい。そこで、「墓じまい」の仕方というものがある。現在のところ、永代供養のできる納骨堂や合同墓地への改装、そして散骨、樹木葬などの自然葬が紹介されており、手続きは墓地・埋葬法に沿って進めなければならない。亡くなった後の遺骨も法で管理されていて、勝手な扱いをしてはならないのだ。遺骨と言えど命と繋がったもの、一体である、という考えがあるのかもしれない。その他諸々の事情、必要性も。                                     何だか、逝ってしまえばそれっきりで、お気楽そう。物質世界が事をややこしくしているのでは? と。

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