「お名前は?」「ご本人でよろしかったですか?」「生年月日をお願いします」 これを聞いただけで電話を切りたくなる。 「ご本人?」「よろしかっですか」への嫌悪感とともに、「生年月日まで必要ないでしょ」と敬遠気分。ちょっとした用件にすぎない。 「個人情報保護のためにご本人確認が必要ですので」。本人を騙って企みを図るような内容は含まれないが、判で押したようにこのセリフ。オペレーターに過ぎない赤の他人に、まして不案内な外部に向かって聞かれるがまま易々と自分の生年月日まで言うことにかなりの抵抗がある。正しく自分の「個人情報」を保護したいという強烈な思いに囚われる。 この「個人情報保護」という札を掲げられてどれほど自分をさらけ出すことを強要されることか。近年の御し難い異常ともいえる様相である。
電話すれば、電子アナウンスとオペレーター対応。デジタル風を装った応答に言葉の機微は伝わらない。マニュアルを暗唱している図が電話の向こうに見えるようでもある。血の通った会話を望んだとたんに通話は破綻する。デジタルとアナログ。質問にはデジタルのマニュアル回答のみ。システムに縛られて彼らも動いている。
「合理性」が重んじられて久しいが、それと共に「個人情報保護」を謳った個人情報管理。管理と合理性が一体となった社会の到来だ。加えて、今度はAIまで登場。「血の通った会話」の場面は徐々に減りつつあり、人の絆に触れる場所、育む場所が狭間ってきている。
こんな土壌が広がる一方で「助け合い」の場面は年々増えてきており、貧困、災害被災を主に、障害、高齢者対応 等々。そして、ここで求められ、息づくのは「絆」。絆の炎が辺りを照らし、温める。このぬくもりが当事者となった人々の拠り所となっている。
統制の進むこの社会に、近年悲鳴がこだましている。聞こえてくるのは「高齢者の集団自殺」、「尊厳死」、「自助努力」・・。合理化社会に育った者、促進に携わった者等にとっては自然な思考の流れであり、合理社会の常道を踏み外した者は彼らの視界から消える。
合理性の産物であるデジタル。その使い手であるはずの人間がデジタル様に自己変革して行っているような気配があるが、思考はごくごく身近な生活場面から醸成されていくものだ。このデジタル思考が拍車をかけて合理性を論じれば、生産性のない高齢者はお荷物扱いとなり、「集団自殺」「尊厳死」に行きつくのだろう。詰まるところ、適者生存。究極の合理的発想ともいえよう。審判が下されたばかりの優生保護法は、現況のまま突っ走れば、またぶり返す可能性だって十分あり得る。
古来、「合理的」は歓迎されがちな思考ではあった。判断基準として絶大な価値を占めてきた。が、それだけに事の重大さに慄然とする。辿ってきた軌跡を振り返って、今「静かな暴力」を感じる。真綿が首を絞めるようなそんな力が「合理性」に感じられるのだ。 これから更に先鋭化するであろう「合理性」が、人に何を与えてくれるのか、何をもたらすか。 この経済体制において、利潤追求は核となって転がり続ける。「合理化」を抱き込んで驀進する。止めることができない。体制が続く限り止まらない。
場合によっては、戦争より厄介な動向になりそうな雲行きだ。
進む方向を熟慮するぎりぎりのラインに、今達しているのかもしれない。いつの時代もそうだけれど、防衛は”武力”ではなく”思考力”だということを、立ち止まって改めて認識するときを今迎えているに違いない。
人の世に生まれて、ともに生きる。 生きる力は、頼りになるのは、互いの絆。
人間を含めた生物の、限りある命を育む方向へ近未来にシフトされるであろうことを信じたい。 人間を、そんな人間の叡智を信じる。