「弱者」というけれど

支援を語る文言の中に「弱者」という言葉を見聞きすることが多い。中には自称する人もいるほど使用が一般化している。概して心身の被害者あるいは病んだ人、困難または不公平な立場に身を置いた人など、社会的に“負”と思われる状況にある人を指す。                      「弱者」という発想には「強者」が並立している。その言葉の脇に壁、ハードルが伴っていることを意識して、ときに抗議の意を込めて使われる。                          この言葉が日常の中に溶け込んでいること自体が、社会の実態を物語っているな、と改めて発見にも似た実感がある。弱者-強者、のガッチリとした平面的構図が浮き上がって来る。

その視点に立てば、近年頓に目につく“○○支援”は、ともすればこの平面上で立体感を装うべく気分的なバウンドを促す試みでしかないかとも思われる。                      「寄り添って」と、寄せられる気遣い言葉の数々。「人と比べる必要はない」「ありのま「まの自分で」「逃げても良いのだよ」・・。                              これを聞かされて、安心する人もいるだろうけれど、不快に感じる人もいることを知らなければ、社会の、人の立体的実像に迫ることは難しい。

因みに、「弱者」と呼ばれる(または自称する)人の声を想像して代弁してみる。

・被害を被っているからといって“弱者”なんかじゃない。取り上げて問題にすべきは加害者だ。そちらに目を向けてほしい。

・好き好んで障害の身になったんじゃない。気付いたらレア体質だっただけ。自力で生きたいよ。人の手を借りたくはないんだ。 この気持ち、解かってほしい。

・わがままじゃない。学校に行こうとしても、身体が動かせないんだ。解ってもらえないだろうナ…。普通になりたいと思っても自分を思い通りにできないんだよ。利いた風な同情など真っ平だよ。

・歳でね。思うように頭も身体も動かなくてイライラするんですよホントに。ついこの前まで心身ともフル回転していたのに。我ながら厄介です。

・自堕落して困窮してるんじゃない。こんなはずじゃなかった・・。けど、今はただ生きて行くためのお金が不足しているだけ。自分自身が損なわれているわけではない。子どものためにも弱者という見方は止めてほしい。

これらは、自分がその立場に立ったら誰でもが心中に抱く感情だろうと思い、気持ちをなぞってみた。これらは他人事のように思えて、実は自分の感情なのだ。一面的には表現できない感情の塊。   「可哀想」などではない。とんでもない思い違いであることが分かる。

人は誰でも「自分の力で生きたい」という強烈な基本欲求がある。主体性だ。これに基づいて人は生きようとする。本能に近いものだが、それが本来の力として人の内奥に潜んでいる。

例えば、学校でいじめに遭っている小学4年生の男の子。家でそのことを話さない。彼が一番傷つく言葉は「弱虫」。そんな風に思われたくない。学校でむちゃくちゃ弱虫扱いされて、それを家に持ち帰ればそのフィルター越しに見られてしまう。休める場所がなくなる。自分は弱虫なんかじゃない。話題にもされたくない。こうして彼はかたくなに自尊心を守る。

「可哀想」などと思われたくない。                              強烈に願っているのは自分の本来の力を発揮できるようになることだから。            そういう環境を手に入れることだから。                            その気持ちを萎えさせるような言葉はむしろ害でもある。

「弱者」。立場が弱い者という単純な解釈では済まない多様な意味合いが広がって、いつしか、憐れみを含んだ言葉としてもほぼ一般的に使われている。

「憐れみ」は静かな暴力に近いかもしれない。

何に、どのように困っているのかをまずは理解し合うことが望ましい。               立ち位置は異なるけれど、同じ人間同士。相手は未経験の自分なのだ。あるいは忘却した自己…。

   

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