「学校」改革をしよう👋

〇〇支援、△△支援と居並ぶ中に、「子どもの学習支援」というものがある。           これは経済的事情で学習塾に通えない子供たち向けの無料の学習塾を指す。            今や、学習塾は学校と同程度に“通うのが当たり前”というほどに定着してきている。学校の学習はどうなっているのだろう? と、不思議に思われるが、この風潮が特に問題視されている様子もない。   学校の先生方は忙しくて大変そうだが、子どもたちは何しに学校へ行くのかと、素朴な疑問が湧いて来る。子どもたちの学習教育環境をこのまま国は放置しておくのかナ? と。相当に重大な問題なのだけれど、何も聞こえてこない。

もうずいぶん前からそうだが、子どもたちは忙しい。下校の後は塾と習い事でスケジュールは詰まっている。大人になるために生きてるわけじゃないんだからそんなにせっせと準備させなくても・・と思うけれど、どうもそんな悠長な発想にはめぐり合えない。                     そもそも、特に都会の子たちは遊び場が無い。野っ原があるわけじゃなし、近所に友だちがいるわけじゃなし。プールに行くか、お絵描きか、ピアノを弾くか・・柔道か剣道か・・。もちろん子どもの将来のために親は教育の一貫として通わせる。                           一方で、留守宅に子どもを居させるより安心という側面も見えてきて、何とも窮屈な居心地の悪い子ども環境がまたひとつ加わる。

今や、「子どもの場所」が崩壊してしまっているような印象を受ける。

その代表各はやはり学校。学校が彼らの集いの場であることは昔から変わらない。         放課後をできるだけ開放することで多くの子どもたちは安全な居場所で思いっきり羽を伸ばすことができるはずだ。必要に応じて保護体制を整備すればよい。                     同年齢がそれぞれ一堂に集まって同じ時を刻んでゆく。そこで共に学び、遊んで連帯感も生まれてくる。その思い出がときに心中深くその後の人生の支えにもなったりする。             今更ながらと思いつつも、ここが学びの中核であるべきことを改めて痛感する。

そのためには、学習塾との乖離を明確にしなければならない。生い茂った草木に手を入れるがごとくの仕分けの煩雑さが想定されるが。                               人は生まれながらに能力が異なり、学習能力の優れた子どもは居る。まず、ここでその子たちが進学のために専用の塾に通う慣例について検討する必要がある。これが最大の難題ではある。当塾での授業内容がかなり突出しており、進学校含めて状況の是正にはかなり広範囲の取り組みが予想されるが…ここにメスを入れない限り基本体制は変えられない。                        新たな選択肢を設けて流れを変えることができれば、それが最も望ましい。

一案として、学校における彼らの扱いについては、「飛び級」を設けて適切な学習の場を与える方法がある。「中高も視野に入れて学年の仕切りを緩やかにする・・特定の教科も検討の対象とする」。この改革によって、学びの場である学校に躍動感が蘇る。                      子どもの学びの場は塾ではなく学校なのだ。この認識を再強化させる。              習得に遅れがちな子どもについては、学校で補習をさせる。そのようなカリキュラムを組んで教師の人数を増やし、正当な授業として扱う。

要するに、学習塾通いが不要な状況を学校が創っていくのだ。かほどに塾が乱立している状況がどれほど異常事態であるかに、今気付けていない。評判の「多様性」が招いているものは、貧富の差から生じる機会の不平等。授業内容の不平等。すなわち、教育の不平等である。

教育の現場は荒れすぎている。教師は疲弊し、子どもの自殺は増え続け、いじめは日常茶飯…。そして学校の領域に侵入する塾の越権ぶり。この状況に手が加えられず、「知育」優先の教育に重きを置いた子どもたちのレールを敷き、あとはそこに群がる関係者と父兄の事情、価値観にお任せ状態となっている。

学校は、学習だけを教える場ではない。道徳、倫理観を徹底的に身に付けさせる必要があることを折に触れて感じさせられるが、学校側は、これを主として家庭の役割と心得がちである。だが、ここに教育の大きな歪がある。

年代を問わず、社会に発生するさまざまな問題は、「心の姿勢」が問われるような類が多い。どこでそれを身に着けるのか。

心に余裕のある両親の下に育てば幸いだが、外れるケースは少なくない。親も忙しくて精一杯である。家族間で時間の共有もあまりなく、かつてのような家庭の厚みは無い。今や家庭に穏やかな物知りもいなくなった。学校しかない。学校で学ばせなければ。

学校側は、その役を依頼する人材を教師とは別枠で投入する体制を整備することから始めなければならない。ここでまた、学校新体制に向けた改革が加わる。

価値・基準を身に着けるためには、幼い時から繰り返して教わることが肝心である。        学校の「道徳・倫理」に相応の時間を割き、専門の人材を配置する。教師と雖も、当件に未熟な者では用は足せない。一例として、研鑽を積んだ和尚さん等が対象者として挙げられる。理を充分に身に着けた人物が推されなければならない。ここは要の部分だ。                     このような状況が整えば、当然、“いじめ”も無くなることが期待できる。             また、「自分で考える」という態度が身につけば、子どもたちの将来は明るく、未来の社会に光が宿る。文明がどれほど進化しても、「人間」が操縦できるであろうことに安堵する。

人間の未来、社会の将来は「教育」にかかっている。「教育」には時間がかかる。

社会に生じる問題には「倫理観の欠落」に起因するものが目立つ。この点を糺さずして、“支援”と名付けた対症療法は空しく名称が響くばかり。

「教育」が人を育み守り、社会を育み守る。そして未来を約束する。

 

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