その昔 福祉要員駆け出しの頃・・・。 「生活できない」と、その人は福祉部署に駆け込んできた。手にしているのは何冊もの預金通帳。 「入院費を払ったら、もう残高が無くなってしまって・・」 通帳を遡って見せてもらうと、数百万単位の金額が何度も引き出されている。少ない時でも数十万円。「何ですか、これ?」 ここから始まった。
彼は元国家公務員。精神を病んで退職した。世間的には中堅の頃合い。十分な資産に加えて障害年金が支給されるので生活の心配はない。はずだった。
退職後、時間を持て余す。病気の症状で、思考と精神のバランスは良くない。高齢ゾーンにはまだ間がある。街を散歩。喫茶店などでお茶・・の日々の中、知り合って話し相手になってくれたのが占い師さん。年配の女性。この占い師女性が、親しくなるにつれて彼に借金の申し込みをするようになった。 聞けば見え透いた嘘だけれど、最初は信じて、その後も本人は断り切れずに貸した。
度重なり、返金を請求しても彼女は応じない。すでに3,000万円程の出費になっている。出入りの損保会社を通じて弁護士に相談し、裁判に持ち込んだ。 が、逆に彼の方が彼女に迫った由で賠償金を課された。裁判費用に加えて思いがけない判定で払わされた賠償金。「裁判はもう、嫌だ」と、話しながら彼は激しく嫌悪した。
話はここで終らない。
その後も、彼のお金を使い果たしたにも関わらず、占い師は彼の年金支給日に家の中に上がり込んで来て、金の無心をするとのこと。
聴き終えた後、占い師の名前、住所を訪ねたが「知らない。電話がかかってくるだけ」。 「じゃあ、裁判記録を次回持ってきてください」。話を聴いて裁判内容、弁護士の対応が気になっていた。記録に目を通して、弁護士に連絡しようとしたところで部署の上部からストップがかかった。管轄の仕事ではない、と。福祉と言えど、担当分野の範囲があるということをそのとき、思い知らされた。
「裁判はもう嫌だ」と、本人は言っている。お金が無くなってからは遠のいてしまった兄弟。両親はもういない。相談相手がいない。状況を整理分析し、しかるべき資源にアクセスして解決する力は本人にはない。この状況に陥ったこと事態が病気の症状だ。 彼の3,000万円はこの患いのために被害に遭い、このまま回収することも出来ないのか。 『こんな人を救うのが福祉じゃないのか』と、痛烈な思いをその後引きずることとなった。
結果として限られた業務内でできたことは、彼の金銭管理。全資産を本人から預かり、一定期間ごとに生活費を渡す。別機関に連携して託す仕様だが、さしあたって占い師の無心防御を目的とするもので、これがこの件の解決のすべてだった。 「これ以上の被害に遭わないように、公的に支援してゆく」という形で現場の任務は終了となった。
ご本人は、心して敷居をまたいで来所相談されただろうに、風船が膨らむことはなかった。破裂することのないしぼんだままの風船を持ち帰っただけ。 病気の症状が、周りの人の何を引き出すかを目の当たりにして、本人はどれほど辛く悲しかったことだろう。自分を助けてくれる人は居らず、財産も盗られてしまい、生活に余裕はない。自己の裁量で動けることには限りがある…。
このような人に必要なものが「福祉」なのだ。安堵、安心感が得られれば、人はまた動き出せる。 「福祉」は特別なことでは全くない。平たく言えば「望ましい人の在り様」だ。心だ。 困りごとには種々あって、それぞれ制度・規定が設けられており、それらを運用しながら合法的に事を解決に導いてゆく場面は業務につきもの。だけれど、それは手順、方法に過ぎない。下手をすれば行政業務さながらの扱いに終始し兼ねない。「人として望ましい在り様」の気持ちを支柱としてこそ手順、方法が本来の意味を発揮する。福祉機能する。そして安堵と安心が生まれる。 窮屈な囲いから逃れて大空に飛び立って行くような気持ちで、礼の言葉も忘れるほど安心して笑顔で去って行くのがベスト。それが支援側の歓びともなる。
人がこの心情をいつも思い出していれば、実は戦争など起こり得ない。
「福祉」は特殊なことなどではない。人の生き方そのもの。真髄は生物の生き様でもある。