“親”は未知の領域だ。
つい先頃までの慣れ親しんだフリーなライフ感覚は、遠ざかって、戻らない。“親”という未経験のゾーンに足を踏み入れ、半ば本能に導かれて道を探りながら歩むこととなる。
当然、事前に想定してそれなりの子育てを設計している人も少なくはないだろう。そしてまた、事の流れに任せて「親の義務」を果たそうとする人。ただただ、想定外の事の運びにうろたえる人・・等々、親となる当人たちの状況はさまざまだ。 その個々の閉じられた環境を「世界」とみて、そこで子どもは育つ。これの繰り返し…。 「親ガチャ」、「毒親」などのことばが頻出するようになった背景に目を向けると、その環境を形成する要因は個々さまざまにあれども「子どもが子どもを育てている」様相であることを改めて感じざるを得ない。
“家”が重んじられていた時代は、その家に年長者が同居しており、子どもの養育も含めた暮らし方全般が若年の者たちに伝授されていた。統制による安定感があった。
核家族が一般化した近年、“親”になった、またはなってしまった新人二人の脇に助言者はおらず、殊に未経験の事態への対応には心理的格闘も伴う。子どもは否応なくそれらを感受する。
改善策として―
結婚してもしなくても、親になる前に、どこかで“親”としての「子育て」に特化したマップのようなものを「成人」の条件として取り込んでおくことが有効と思われる。さらに言えばその必要性は高い。「親は何者なのか」「子は何者か」から始まって、「生きていく上で、何が大切なのか」等の基本を講師は示しながら、聴講者がマップを描いてアクセスの仕方を考えることを促す。これが内面化されることが重要であり、履修には相応の時間設定を要する。
「この履修を『成人』の必須条件にするということは、履修しなければ選挙権も行使できないということであり、これを以って『成人』と認定される」と、する。
ごく一般的生活感情としても―
生命体である人間の子どもを、その子が独立できるまでほぼ15~20年間の生育監護は親の本能のエネルギーが主として引き受けている。 特に女性の場合、子どもを出産した直後から“母”となり、“親”を受け入れることとなる。 十月十日の妊娠期間が心理的受け入れ期間になるにしても、現実に“親”としての人生が始まれば、確実に人生が様変わりする。子の生育監護は、本能と相俟って人生そのものとなる。 傍らの男性も実感の重みは女性とは程遠いものであっても、時を経て内面に事実の重みが増してくる。 子どもは日々心身が成長する。この事実は大きい。
人生の新天地を迎えるにあたって、事前に知識と対処手順を知っておきたいところだ。