「親になる」人たちへ
虐待をしないでほしい。
後遺症は全人生に亘って影響する。「生きづらい人生」となります。 身の内に刷り込まれた存在の否定、被害者意識はバランス感覚を欠き、日常行動のあらゆる場面で周りとギクシャクしながら過ごすこととなります。
虐待の衝動・・・あなた自身が、実はその被害者であった。
親を恨み、家庭を嫌悪している・・。そこから遠く離れたかった・・。離れた。 生育環境を嫌悪し、その対極を求め続ける。後遺症ゆえの職場や対人関係のギシギシ感を抱えながら過去の記憶に極力蓋をして、いつしか望みを果たす。理解し合える伴侶に出会い、そして…始まる…。
「家庭」を構え、子どもの育成も生じてくる過程のなかで、かつての経験が無意識のうちに蘇える。植え付けられ、内面に張り付いた自己否定感は容易に拭い去れない。記憶を否定しようとする気持ちが引き金となって、かえってかつての実情が内面に蔓延り、意識に反しながらも記憶は居座る。一種の瞑想状態を引き起こす。良くも悪くも、常々心に在ることは行動を伴い、思い描いたことが実現する。“心配は身の毒”とはこのことだ。
「親に似る」のではなく、この意識のシステムが働いて正しくは「影響を受ける」こととなる。
子どもを虐待しているときの自分の感情をあとで振り返ってみるとき、引きずり込んだ種々の要因をそぎ落とし、それを引き起こした真の原因に気付くことがあるに違いない。その直後か、人生の中盤か、晩年か・・。場合によっては人生を終える頃になるかもしれない。 「何だったのか、この人生は・・」と。 これが被害の実態です。 生命を授かって生きられる限られた時を、人生をダメにしてしまう。
「生きづらい」と訴える子どもたちが大勢います。未成年者の自殺も増えてきている。それらがすべて家庭環境に起因するものではないにしても、間接的にかかわりをもつケースは少なくはない。 虐待じみた家庭環境に置かれた子どもは、そのうっぷんをどこかで発散しないとバランスがとれない。その時々のちょっとした気分に身を任せて暴走してしまうこともある。ターゲットとした相手の戸惑いは当人にとってスリリングな見ものになる可能性も考えられる。 これが、いわゆる“いじめ”の基本構造だ。
身体的、性的、心理的虐待、ネグレクト(保護の怠慢)が児童虐待と示されてはいるけれど、子どもが家から逃げ出したくなる理由はそれだけではない。虐待のカテゴリーに入ってはいないが、「親の価値観で子どもを縛り、子どもの自主性を無視する」ケースも実は根深い広がりがある。 児相が立ち入らない領域であり、そこで苦しむ子どもには目が行き届かない。先の“いじめ”に走る子たちはこの領域にも多く属していると考えられる。
親になって・・。 子どもを通して、自身の育成過程を再体験したいのか。望まなくても無意識の想いに気持ちを委ねてしまえば、いとも簡単にその道を辿るはめになる。
一方、子どもを通して思い焦がれた人生を目の当たりにし、体験することもできる。何を、どんな風景を思い浮かべるか、それをどれだけ自分に引き寄せるかの想いの強さが好ましい途に導いてくれる。 その時点で自らの人生の土台を構築することになる。
愛情不足は、身体の栄養不足と同様、致命的な生長危機に陥る。
存在そのものを信頼して心に抱き、愛おしむ気持ちさえ親にあれば、子どもは大地に根を張ってすくすく育つ。