これ「DV」ですか?

「“DV”なんですか?」.被害者の声である。

支援で、第一のハードルになりやすいのは、被害者のこの事態の「認識度」だ。          この種の相談者は、耐えかねる思いを抱えて相談に訪れるが、「DV」と聞いた途端にハトが豆鉄砲を食らったような心境に陥り易い。DVは他所事なのだ。

夫からの、身体・言葉の暴力、行動規制・拘束等が長期にわたって日常化してしまえば、事の異常さに気づきにくい。他者から暴力支配の分析・説明を聞かされても、その場で意を吸い取れるほどの冷静さ・客観的な精神的余裕はない。                               混乱を振り切って日常に戻る。しかし変わらない日常は続く。

当人が「人権侵害の被害者」の認識を以って立ち上がるまでには・・・時間がかかる。       相談と日常の行きつ戻りつを繰り返す。「結婚前は優しい人だった」という思いが、人によってかなり強力に認識を阻むケースもある。「世間体」だってある。「幸せな結婚」のはずだった。      また、居を構えて、子ども共々家族が生きて行けるのは夫の経済力があってのこと、多少の我慢は仕方がない、妻として当然のこと、と思わされ、思い込んできた。

その「当たり前」を否定して「あなたはDV被害者だ」と言われても、面食らってしまう。一気に人生観の転換を図ることは難しい。

しかしながら・・次第に、少しずつ・・おそらく、初めて自身の“人権”と向き合う戦いが相談者の内面で始まることとなる。                                    これまで「自身の人権・尊厳」など殊更に意識したことはなかった。しかし、この結婚生活の中で身体的・精神的暴力を受けながら、根底から湧き上がる怒りの正体に日々向き合わされている。“尊厳”というものを持たない生き物のような扱いを受け続けて、それが日常化している。世間的には「平穏な家庭」の体をかろうじて保っているが、何を主軸にして生きることを自身は求めているのか。     子どもにも悪影響が及んでいる。人生において守るべきものと切り捨てるもの。自ら選別し、決断しなければ。                                          ごく平凡なこれまでの暮らしの中で、想像さえしたことのない人生の闘いの真っただ中にひとり身を置く現実は、覚めない悪夢に等しい。                              生活はどうする?仕事は?子育てできるか? 課題が目の前に山となってそそり立つ。しかし、もう躊躇できない。前に進むしかない。

こうして、時間をかけ、自分自身と向き合い闘って自立を果たす人の例は多い。          そして、中には後に、DV被害者への啓発運動に取り組む元被害者も少なからずある。       DVを受け入れ難かった自身の経験から、渾身の思いを込めて。

一方加害者は・・。

同様に、おそらく、被害者以上に事態を認識しにくい。                     家庭という密室の中、相対的事象は周りになく、自分のポジションも姿も見えない。自分が困ってはいない。知る必要性も感じない。自分の日常私生活の場におけるライフスタイルだ。

伴侶(妻)に対し、時に暴行し、事あるごとに人格否定じみたことを言い、相手の気持ちに構わず自分の要求を突きつける等々、当人の無意識の「支配」が日常茶飯事になってしまえば、その日常の中にどっぷり浸かってしまった当人自身が事態の問題に気付けない。                  当人に、言葉で理解を迫っても「知る」ことはかなり難しいだろうと思われる。

人はあらゆる相対的な事柄の中で生きており、相対性ゆえに比較検討もでき、自分のポジションが確認できて自分の在り様を選び決めることができるものだが、DV加害者はその環境にない。唯我独尊の世界。そこでは限界さえも見えない。自分が相手にどの程度の被害状況を及ぼしているのか、知りようがない。

そして・・・ある日、突然、破綻を来す。

当然の成り行きだが、当人には理解し難い。解かりたくない。                  力づくでも元通りの「場」を取り戻そうとするが、どうにもならない。             「家族」に依存して日々生活しながら、その存在の大きさに当人は気づいてはいなかった。     失敗したのだ。家庭の大黒柱が何かを彼は知らなかった。

成長過程で蓄積してきた抑圧感を、「“支配”で相殺する」ことが自身の解放だったのかもしれない。 これが本人なりの「自立」、「大人の男」のイメージだったのか。

この種の支援として重要視されているのが「加害者向けプログラム」だが、指摘を受けても、当人がそこに意識を集中して客観視できないかぎり、また、回を重ねて振り返ろうとも、ほぼ人格の一部となってしまった要素を排除することは容易ではない。誰よりも本人がそれをよく知っている。

何がそうさせたのか、以後、当人の終生の課題となりそうだが、何年もかけてプログラムの訓練を受け、元家族に受け入れてもらえる人の例もある。また、結果はさておき、そもそもプログラムに向き合うこと自体が一種の啓示にも似たものだ。                           どんな方法でも、例え一瞬でも、改める方向に気持ちが「向く」姿勢は大きい。このことは当人の貴重な尊い経験として、終生心の癒しとなるに違いない。

生まれ育った家庭が「愛と平和」で満たされていれば、苦労はなかった。             少なくとも、内面の柔らかい時期に「人生の主軸・愛」をしかるべき場で教わっていれば、感性・意識内に取り込めたことだろう…。

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